結局
現代文学資料集11『家庭之友』にある
李永哲ソンセンニンの童話3つみなコピーして読む
後の2つは愚かな虎の話と金の指輪の話
発行年が昭和12年から13年っていうことは
ハングル맞춤법ってもうあったんだよね
えっでも、
当時の正書法はこういうのんかいな???
이광고를 보고 두사람이 차저 왓슴니다
とか차저なんか結構すごい気がするし
점점 깁피 들어가 필경 물고기의 밥이되고 말엇슴니다
とか、この方は아語幹が어になりがちだったり色々。
非母語話者の母ちゃんはこういう書き方の文は
頭で発音しながら読まないとわからない
逆につづり方が多少ちがっても音で意外に判るのが常に不思議
このテキストなんて作者の方言がどこのかも見極められないにせよ
たぶん綴り字にすごく影響してると思うが
ハングルは表音文字だから
標準的な発音を忠実に表記する正書法だって考えうる。
でも完全な表音文字なんていうのは存在し得ないし
それを追求するというのはやっぱり方向性に疑問が残る。
文字は読み書きのためのもので
文字を介する理解というのが会話と最も異なる点は
読者の解釈方略が読者の言語使用能力のみに依存しているということだ
だから
会話の協調原理のようなコミュニケーション用のストラテジーではなく
まず、書き手ができるだけ
読み手の言語使用能力を想定して調整しながら書くことが
前提となるのであり、
話すことと聞くことがそれなりに対立をなすのに比べて
書くことと読むことはほぼ同じレベルの作業だったりすると思う。
あと、音声言語の処理というレベルは
読み書きによる理解に根本的にかかわらないはずで、
ならば発音どおりに書くことは正書法にはあまり有意味でないことになる。
これが結局完全な表音文字が現れない原因なのだろうし・・・
最近の韓国は漢字使用についての議論がまたあるらしい
っていうかそれいつもあるやんという気もするのだが-_-;
だが他方、完全な表意文字というのも存在し得ない
と母ちゃんは思うケド。
さっきの
昔の朝鮮語を黙読して理解しようとする話ではないが、
文字を介する理解が何らかの理由で潤滑に行えないとき、
音声言語の処理という手段によって
書かれたものを解釈しようとするということが
よくあると思う。
これは、読む時にはあまりに自然に行っているので想像しづらいが、
字を書くときのことを考えてみればもっとよくわかる。
少しまとまった量を書いては、黙読しているものなのだが
ひとつひとつ定められた意味をもつ文字が複数あったとしても
テキスト性を備えることで言語的な意味はつねに拡張され続けるのであって
意味のある字を写植のようにスロットに収めていけば
言語的な意味が文字で記述できるかといえば
それもそうはいかないんだろうと思う。